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2021年05月17日

松下村塾の志

国難に際して大転換を図るためには、天下国家を論じることが極めて大切である。
松下村塾はまさにそのような場であった。城下町・萩は、防府からも山口からも遠く、日本海に面しており交通の要衝からも外れている。こんな片田舎で天下国家を論じ、さらに欧州や中国など海外の事情にも通じていたとは。
江戸時代の後期には、伝馬制度の整備や商業・流通の発達などによって人・物の移動や情報の伝達がかなり自由な社会となっていた。各藩の指導層、御用達の商人や市井の識者などは、オランダ商館から流出する世界の情勢を知っていたのである。藩校明倫館の兵学師範である吉田松陰もこのような一人であった(藩主が直々に推す逸材であった。)
松下村塾で吉田松陰が教えたのは1年余り、門下生は約50名と言われている。
幕末から維新、明治にかけて活躍する人材を輩出した。久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、寺島忠三郎、前原一誠、伊藤博文、品川弥二郎、山田顕義、野村靖などである。桂小五郎(木戸孝允)は藩校で松陰から兵学を学んだが塾生ではない。山縣有朋は顔を出した程度で、井上馨は江戸詰であった。
高杉は、松陰の思想である草莽崛起を奇兵隊(民による軍隊)という形にした。藩が幕府恭順に転向したとなるや、高杉は手勢約80人で挙兵した。これを功山寺挙兵(回転義挙)と言う。伊藤と石川小五郎は真っ先に駆けつけ、その後山縣らが率いる奇兵隊が参戦し藩正規軍を破り長州藩を倒幕に動かした。
また、安政の大獄により松陰が斬首刑に処せられたとき、門下生の飯田正伯と尾寺新之丞に桂と伊藤らが加わり、亡骸の引き取りを交渉し小塚原刑場に迎えに行った、桂と伊藤が明治新政府の最も枢要な地位に就き国家制度をつくったのである。松陰の影響力の大きさと偉大さを物語るようである。
松下村塾の教えは厳しくもあり議論し共に考える温かみのある教育であったようだ。探求し真実を貫くかつ実践することを求めた。
松陰の至誠と純粋な思考や果敢な行動からは教育者と言うより思想家である。辞世の句「身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」。幕末には国を憂える人物がいたが、現在には見当たらない。
 by まつ もとよ
【松下村塾】
松下村塾の志


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Posted by ゴールドランナー  at 15:26 │Comments(0)読者のつぶやき、ルポ、etc東海道の旅

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