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2021年05月18日

禁門の変(蛤御門の変)

禁門の変(蛤御門の変)

政権を巡る歴史上の争いや政変を、大雑把に振り返ってみる。
壬申の乱・保元の乱・平治の乱は天皇家や摂関家の内部抗争、源平合戦を経て鎌倉幕府の樹立、承久の乱は鎌倉に対する朝廷側の復権の失敗、この後、後醍醐天皇による建武の新政を除き武家政権による支配が確立した。
応仁の乱は足利義政の跡目争い、本能寺の変、関ヶ原の戦いと続き、大阪夏の陣・冬の陣のあと徳川幕府が盤石となる。桜田門外の変、禁門の変、戊辰戦争を経て幕藩体制が消滅した。
 「禁門の変」は、長州藩が倒幕へと向かう端緒となった戦いである。
尊王攘夷である長州藩は、他藩に先駆けて外国船を砲撃し意気軒高であった。孝明天皇は大の外国嫌いであるが、長州藩と一部公卿が先鋭化し過ぎていることを内心では快く思っていなかった。これに応えて、京都守護職である会津藩主松平容保は薩摩藩とともに長州藩を京都(朝廷)から追放した(八月十八日の政変)。攘夷決行からわずか3か月後の急転であった。
翌年6月、新撰組に襲撃され多くの勤皇の志士を失った(池田屋事件、長州藩士では吉田稔麿ら10名が斬殺・捕縛)。
同年8月、長州藩は失地回復を目指して2家老に兵2000をもって御所の門を警護する会津・桑名・薩摩・大垣・他の藩と戦い敗れた。長州藩の死者400人とも言われている(松下村塾の門下生では久坂玄瑞・寺島忠三郎ら5名が自刃・戦死)。
この後、出兵に反対した桂小五郎は行方知れず、高杉晋作は出兵を押し留めるべく許可なく藩外に出たため脱藩の罪により野山獄につながれた。
「禁門の変」は、朝廷を巡る会津藩と長州藩の勢力争いであった。そこへ薩摩藩が援軍に駆けつけ最も激しい戦いが繰り広げられ、戦火によって焼かれた門が開かれたので蛤御門(正式名は新在家御門)と呼ばれる。公家町と市中とを隔てる9つの門があった。御所の門は普段閉じられており禁門という。
byまつもとよ
【蛤御門の案内の立て看板】
禁門の変(蛤御門の変)


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Posted by ゴールドランナー  at 14:46 │Comments(0)読者のつぶやき、ルポ、etc

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