CATEGORY:まつもとよ
2019年05月21日
桂小五郎(木戸孝允)
桂小五郎(木戸孝允)
勤王の志士で有名なのは、長州藩士・桂小五郎(注1)です。
優秀で若い頃から見い出され、江戸へ遊学、剣術道場の塾頭、勤王の志士、池田屋事件、禁門の変(蛤御門の変)、潜伏生活、藩政務へ復帰、薩長同盟の締結、四境戦争(第2次長州征伐)など幾多の場をくぐり抜けて、明治になって木戸孝允と改名し、新政府の実権を握る。五箇条の御誓文の草案にも関わった見識ある人物である。
(注1)藩校明倫館にて吉田松陰から兵学を学んだが、松下村塾の門下生ではない。松陰は「厚情の人物なり」「吾友 桂小五郎武人なり」と評している。
桂は酒豪であり大酒豪の土佐藩主山ノ内容堂と飲み友達である。あるとき、2人で呑み交わし、明治天皇の御前で酔って泥酔したことがある。
整った面相に174㎝の体躯(当時は大きい)の豪傑である。江戸三大道場の斎藤弥九郎道場で5年も塾頭を務めた腕前であった。
【前の右から2人目が木戸孝允、後ろ右端が伊藤博文】
長州では、桂小五郎は政務や対外折衝に、高杉晋作(注2)は軍事や危急のときに活躍した。
薩摩では、西郷吉之助(隆盛)は軍事や対外交渉、大久保一蔵(利通)は実務や調整、仕切り分けしていた。木戸、西郷、大久保が維新3傑である。
(注2) 桂より4才年下。大政奉還を前にして下関にて肺結核で病死。(享年29)
辞世の句「おもしろきこともなき世におもしろく」
福岡で匿ってくれた野村望東尼が読んだ下の句「すみなすものは 心なりけり」
木戸孝允は、明治新政府にあって筆頭となり、廃藩置県、四民平等、三権分立の確立など近代国家の体制づくりを進めた。一方で戊辰戦争が終わった明治2年、国家建設のため命を捧げた同士を追悼し顕彰するため、東京招魂社(靖国神社の前身)の建立に尽力している。
また、薩摩・長州・土佐・肥前による藩閥政治を是認し、各藩からの参議による4人の合議制の指導体制とした。ところが、直後の明治4年から約2年近くも、岩倉使節団に加わり大久保利通、伊藤博文らと米国・欧州各国の視察に出た。帰国すると、西郷隆盛の征韓論や板垣退助の台湾出兵に反対し山口に帰ってしまった。
その後、板垣退助と共に参議に復帰し、立憲政治の確立、二院制議会、大審院の設置を行なう。しかし、大久保との意見の違いから政争に疲れ、また更なる体調悪化もあって参議を辞した。
そして、西南戦争の最中、明治10年(1877年)「西郷もいいかげんにしないか」と新政府と西郷を案じながら京都で死去した(享年45)。勤王の志士たちと共に京都霊山神社に祀られている。 byまつもとよ
勤王の志士で有名なのは、長州藩士・桂小五郎(注1)です。
優秀で若い頃から見い出され、江戸へ遊学、剣術道場の塾頭、勤王の志士、池田屋事件、禁門の変(蛤御門の変)、潜伏生活、藩政務へ復帰、薩長同盟の締結、四境戦争(第2次長州征伐)など幾多の場をくぐり抜けて、明治になって木戸孝允と改名し、新政府の実権を握る。五箇条の御誓文の草案にも関わった見識ある人物である。
(注1)藩校明倫館にて吉田松陰から兵学を学んだが、松下村塾の門下生ではない。松陰は「厚情の人物なり」「吾友 桂小五郎武人なり」と評している。
桂は酒豪であり大酒豪の土佐藩主山ノ内容堂と飲み友達である。あるとき、2人で呑み交わし、明治天皇の御前で酔って泥酔したことがある。
整った面相に174㎝の体躯(当時は大きい)の豪傑である。江戸三大道場の斎藤弥九郎道場で5年も塾頭を務めた腕前であった。
【前の右から2人目が木戸孝允、後ろ右端が伊藤博文】
長州では、桂小五郎は政務や対外折衝に、高杉晋作(注2)は軍事や危急のときに活躍した。
薩摩では、西郷吉之助(隆盛)は軍事や対外交渉、大久保一蔵(利通)は実務や調整、仕切り分けしていた。木戸、西郷、大久保が維新3傑である。
(注2) 桂より4才年下。大政奉還を前にして下関にて肺結核で病死。(享年29)
辞世の句「おもしろきこともなき世におもしろく」
福岡で匿ってくれた野村望東尼が読んだ下の句「すみなすものは 心なりけり」
木戸孝允は、明治新政府にあって筆頭となり、廃藩置県、四民平等、三権分立の確立など近代国家の体制づくりを進めた。一方で戊辰戦争が終わった明治2年、国家建設のため命を捧げた同士を追悼し顕彰するため、東京招魂社(靖国神社の前身)の建立に尽力している。
また、薩摩・長州・土佐・肥前による藩閥政治を是認し、各藩からの参議による4人の合議制の指導体制とした。ところが、直後の明治4年から約2年近くも、岩倉使節団に加わり大久保利通、伊藤博文らと米国・欧州各国の視察に出た。帰国すると、西郷隆盛の征韓論や板垣退助の台湾出兵に反対し山口に帰ってしまった。
その後、板垣退助と共に参議に復帰し、立憲政治の確立、二院制議会、大審院の設置を行なう。しかし、大久保との意見の違いから政争に疲れ、また更なる体調悪化もあって参議を辞した。
そして、西南戦争の最中、明治10年(1877年)「西郷もいいかげんにしないか」と新政府と西郷を案じながら京都で死去した(享年45)。勤王の志士たちと共に京都霊山神社に祀られている。 byまつもとよ
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。