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2021年02月08日

国難(黒船来航)

200年以上も鎖国が続いていた世の中に、嘉永6年(1853年)江戸に近い浦賀沖に軍艦が現れ、開国を要求された。まさに「国難」であった。
コロナウイルスの感染拡大も「国難」・・・??スペイン風邪の流行や結核の蔓延などの方が、経済活動への影響が大きかった筈である。
黒船来航当時、社会は近代化の途上にあって封建制度が崩壊しはじめていた。時の孝明天皇は外国嫌いであり、幕府や各藩に攘夷を求めていた。これが幕末の動乱につながっていく。
当時、幕府を補佐し外国(夷)を払い除く(攘)という「佐幕攘夷」が大勢であった。
「鎖国を揺るがす国難」に幕府と朝廷とが共に対処するため、幕府の老中政治(注1)を改革するよう、有力な藩が動くなど幕藩体制が弱くなった。反するように朝廷の権威が高まった。
文久元年(1861年)、孝明天皇の妹和宮が14代将軍家茂に降嫁し、「公武合体」が成立した。
さらに、薩摩・島津久光は、兵を率いて京・江戸へ赴き朝廷と幕府に圧力をかけた。
一橋慶喜が将軍後見に就き、尊皇で開明的な穏健派が幕府を握った。14代家茂は、3代家光以来の上洛をして、攘夷を決行することを孝明天皇に約束した。
早速、長州藩は外国艦船を砲撃し攘夷を決行したが、翌年、英仏米蘭との馬関戦争に惨敗した。その後「尊王攘夷」から「尊王討幕」へ藩論を転換した(1865年1月)。(注2)
薩摩藩は、英国人を殺傷する生麦事件を起こし、英国との戦争・和睦(1863年)を経て、佐幕から倒幕に傾いていった。
薩長とも、諸外国の軍事力を目の当たりにし、優柔不断な幕府が日本を危うくしていると判断した。そして慶応2年(1866年)、坂本龍馬の仲介により薩長同盟が結ばれた。byまつ もとよ
(注1)老中による合議制であり、大事には実効が伴わない弱点があった。
現代風に言えば、将軍と老中など幕閣はボンボン社長とその取巻き、藩主は創業社長みたいなもんです。(藩財政が厳しいので新田開発や殖産に努める。)
(注2)元治元年12月、高杉晋作が奇兵隊を率いて正規軍を破り、幕府恭順の藩論をひっくり返し、桂小五郎を政務に復帰させた。
【黒船来航・浦賀にある碑】
国難(黒船来航)


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Posted by ゴールドランナー  at 17:56 │Comments(0)読者のつぶやき、ルポ、etc

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