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2021年02月10日

会津藩主の義

 今の世の中、「損した、得した」「勝った、負けた」「迅速・効率化」「コスト」「生産性向上」といった目先のことや経済的な視点などから、物事を二面的に捉えることが多いと思う。
人間らしい感性や情操、文化芸術・デザインなどの創造性を、もう少し尊重する社会にと思う。
まだまだ昔気質の人達たちが残っている。政治家は義理堅い。だから義理の貸し借りが生じ、恩義を感じ党派を組む。一方、人情に厚いのが組の者であろう。周りの人達からツマハジキされ徒党を組むのだ。
義に厚かったのは、幕末の会津藩主・松平容保(かたもり)である。
会津にて降伏する6年前の文久3年(1862年)、容保は、精兵1,000と共に京で死なんとする覚悟をもって上洛し、京都守護職として治安の回復に務めた。藩祖(2代将軍秀忠の御落胤・保科正之)の遺訓『将軍家を大切に忠勤に励む。』に従ったのである。
上洛し、孝明天皇(注1)の意をくんで過激な攘夷派の長州勢力を朝廷から一掃した。(八月十八日の政変)その後、御宸翰(ごしんかん・天皇直筆の手紙)が届き、『会津を頼りにしている。』と伝えられる。
長州藩が京に兵を向けた禁門の変の戦いでは、会津藩は薩摩藩とともにあった。(1864年)
しかし、時代の動きは早く、長州は攘夷から倒幕へ、薩摩は佐幕から倒幕へ変わった。
慶応2年(1866年)に14代将軍家茂が大阪城にて死去、翌年に孝明天皇が崩御し、容保は仕える2人を相次いで失った。
15代将軍慶喜(注2)とともに鳥羽・伏見で戦い、いつの間にか朝敵となった。(1868年)
恭順の意を示したが、会津戦争によって城下は灰燼に帰し阿鼻叫喚の地獄に、数千人が命を落としたと言われている。埋葬が許されず、腐乱した遺体が放置された。
領地は没収、容保は永の預かりの身、藩士は連行されて禁固刑に処せられた。
 容保は、明治13年に赦免され日光東照宮の宮司を務め、明治26年に死去した。享年59歳。
贈られた御宸翰(孝明天皇の信頼が厚く、会津は賊軍ではない証)を竹筒に入れ誰にも見せず身に付けていた。
義に死すとも不義には生きず、会津武士の生き方を象徴する生涯であった。 by まつ もとよ
(注1)明治天皇の父。公武合体による攘夷を望み、過激な長州派を嫌っていた。
(注2)慶喜は、水戸藩主の子で一橋家の養子。尊皇の気持ちが強く朝敵になることを恐れた。
会津藩主の義


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Posted by ゴールドランナー  at 19:46 │Comments(0)読者のつぶやき、ルポ、etc

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