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2021年05月19日

伊藤修輔(博文)の1

伊藤修輔(博文)の1

維新の三傑(西郷隆盛・木戸孝義・大久保利通)の亡き後、伊藤博文は明治政府において最も枢要な地位にあった。
伊藤は周防国にて百姓の家に生まれたが、父が養子となって萩城下に出た(利助9才)。その養親が足軽となったので武士の端くれになった。(13才)。
外国船が出没するようになり幕府は沿岸警備を各藩に命じた。長州藩は江戸湾警護の出役を受け、浦賀に赴いていた伊藤は生涯の師と仰ぐ栗原良蔵(注1)の部下となった(17才)。これが転機となり栗原が引き立ててくれたのである。帰藩の際、松下村塾に入るように勧められた。
吉田松陰は「なかなか周旋家になりそうな」「・・・質直にして華なし、僕すこぶるこれを愛す」と評している。人柄と実直さが魅力であったようだ(17才)。
松陰の勧めで京都に、栗原の供として長崎にて勉学する。桂小五郎の従者として江戸にいたとき、松陰の遺骸を引き取り自らの帯を遺体に巻いた(18才)。
また、高杉晋作や井上聞多(馨)らと英国公使館焼き討ち事件や暗殺に加わるなど過激な尊皇攘夷の志士であった(21才)。
鎖国下に長州藩が密かに5人の留学生をイギリスに送った(注2)。年長の井上馨とともに選抜されたが、英仏蘭米の連合艦隊が下関を攻撃すること知って、留学半年で井上ととも帰国した。馬関戦争に敗れた藩は野山監にいた高杉を講和交渉役に仕立て、伊藤と井上は通訳を務めた。
その年12月に、藩論を質すべく高杉が功山寺で挙兵したとき、伊藤は力士隊を率いて真っ先に駆けつけた。後年、『私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、このとき、一番に高杉さんのもとに駆けつけたことだろう』と語っている。
この後、藩の実権を握った桂から外国商人との武器購入を任された。第二次長州征伐・戊辰戦争には参陣できず事務方であった(24才~)。慶応4年に神戸居留地であった銃撃戦事件を新政府が取り仕切った。このとき外交事務総督の東久世通禮(注3)に認められ、木戸孝允の後ろ盾と英語に堪能なこともあり出世していく(27才)。
維新に長州藩を先導した来原良蔵、吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎に出会った運、傑出した彼らから好感を持たれた人柄が、明治の今太閤にしたのである。 by まつ もとよ
(注1) 栗原良蔵(くるはらりょうぞう)は、兵学や砲術などを学び学識が深く開明的であり、藩校明倫館の助教を務め軍制改革を行った。江戸屋敷にあって松陰が東北巡視をするための密航を助けた罪に問われた。後に藩の政争にて切腹した。
妻は桂小五郎の妹であり、実子孝正が木戸家の養子になり、孫の木戸幸一は昭和天皇の最側近である。
(注2)長州ファイブといわれる。井上馨は外交、遠藤謹助は造幣、山尾庸三は工学、野村弥吉(井上勝)は鉄道、の父と称される。明治政府における伊藤の職とかかわりが深い。
(注3)禁門の変のとき、攘夷派の7公卿が京都から追放され、長州藩兵に守られ兵庫津から落ちのびた(7卿落ち)。挙兵の後、高杉の命により伊藤は警護に当たった。東久世通禧は7公卿の一人である。【使節団の岩倉具視と副使】左前・木戸孝允、右前・大久保利通、右後・伊藤博文
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Posted by ゴールドランナー  at 13:33 │Comments(0)

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