CATEGORY:新緑と伊豆の観光

2018年05月10日

新緑と伊豆の観光(その10)

新緑と伊豆の観光(その10)
 思わぬことです。
新緑と伊豆の観光(その10)
六花亭のマルセイバターサンドの包み紙は、
松崎の篤志家が起こした「晩成社」に由来するのです。
「○に成」は、
北海道で最初にバター生産をした晩成社を記念している。





新緑と伊豆の観光(その10)
那珂川の桜並木に沿って県道を行く。途中「道の駅花の三聖苑」に立ち寄る。
「大沢学舎(写真)」「三聖会堂」「飲食・みやげ物店」「日帰り温泉かじかの湯」と「花時計」がある。
「三聖」とは、幕末から明治期にかけての郷土の偉人、漢学者土屋三余、大沢村の名主依田佐二平(さじへい)、その弟依田勉三です。
・土屋三余…江戸で漢学を学び帰郷し三余塾を開く。農家の子弟教育を説いた。依田兄弟など多くの人材を輩出した。
・依田佐二平…江戸に出て学び若くして家督を継ぎ、大沢村の名主となった。
大沢塾(後の大沢学舎)を設置し儒学者を招き教育事業にあたる。
また、養蚕の振興、生糸の生産、海運会社の設立などの殖産、私財を投じて伊豆下田北高校の前身「豆陽学校」の創設、北海道開拓に尽力した。新緑と伊豆の観光(その10)
農家に養蚕を奨励し、松崎製糸工場※(写真:さちえの伊豆温泉情報より)を設け優れた品質の生糸を輸出するなどの業績を残した。当時、松崎の繭相場が繭価格の標準であった。※官営の富岡製糸工場と並び、三大製糸工場であった。
足柄県議員、伊豆賀茂郡の長、静岡県議会議員、衆議院議員を務めた。
・依田勉三…東京に出て、慶応義塾に進んだが病気のため帰郷。
晩成社※を結成し、明治16年開拓団27名と共に入植する。
小豆・大豆の栽培、畜産、バター生産などに取り組んだが、難渋を極め苦節40余年、事業は失敗に終わった。
十勝開拓の祖である。北海道神宮開拓神社に合祀されている。
by元シリアスランナー



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Posted by ゴールドランナー  at 12:06 │Comments(0)新緑と伊豆の観光

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